1970年代後半に生まれた私の、波乱万丈すぎる生い立ち

うみ

ブログに関する本を5冊ほど読んだ。

どの本にも共通して書かれていたのが「プロフィールは必ず書くべき」ということだった。

私は昔から、話し相手の背景や価値観を知っていたいタイプだ。

だからこそ、自分のブログにも“私がどんな人間なのか”をきちんと残しておきたいと思った。

ただ、プロフィール欄に一言二言書くだけでは物足りない。

せっかくなら、生まれたときから今に至るまでの道のりを、しっかり書いてみようと思う。

◆ 1970年代後半、中野区の助産院で生まれる

私、ヨハネは1970年代後半に生まれた。

当時でも珍しくなりつつあった「お産婆さん」に取り上げてもらったらしい。

中野区内の助産院で生まれ、その後は都内を転々とする幼少期を過ごした。

かすかに覚えているのは、池上本門寺の近くに住んでいたことだけ。

父が一時期パン屋を開業したこともあったが、修行して独立したわけでもなく、すぐに閉業。

そのため、私は父のパン屋の記憶を一切持っていない。

◆ 3歳で埼玉へ。祖父母との5人暮らし

3歳になる頃、父方の祖父母と一緒に暮らすため、埼玉県へ移り住んだ。

周囲は畑だらけ。 家の裏には雑木林。

古い木造2階建ての家に、両親と祖父母の5人で暮らしていた。

2階の使っていない部屋には、なぜか大量の羽毛布団が積まれていた。

子ども心に「これ、使うか売るか捨てればいいのに」と思っていたが、今思えば高額で買わされた“アレ”だったのだろう。

裏が雑木林、家は古い。 当然のようにゴキブリもネズミも出る。

そんな環境が、私の「自然と共存する生活」の原点だったのかもしれない。

◆ M小学校へ入学。地獄の“登校班”システム

物心がつく前に、公立のM小学校へ入学した。

今思い返しても地獄のようなシステムが「登校班」だ。

朝7時30分、近所のタバコ屋の前に集合。

班長と班員4〜5人で、学校まで30〜40分歩く。

Googleマップでは1.3km・徒歩18分と出るが、子どもの足ではそんなものではない。

畑ばかりで景色が変わらない道を、延々歩くのだ。

そして、最大の問題は—— 登校中に“大”を催すこと。

今の私は通勤中に催すのを避けるため朝食を抜くが、当時の小学生にそんな選択肢はない。

朝食は強制。 登校班は離脱禁止。 「漏れそうだから走って先に行く」なんて許されない。

一度だけ、どうにもならず竹林でしてしまったことがある。

しっかり他の児童に目撃された。

さらに悲劇は続く。

学校に着いても昇降口が施錠されていて入れず、裏で力尽きて脱糞したこともある。

今思い出しても、あれは人生の中でもトップクラスの試練だった。

◆ 目立たない子ども時代と、Tちゃんとの日々

勉強も運動もできず、家も裕福ではない。

特に取り柄もなく、目立たない子どもだった。

ただ、友達には恵まれていた。

特に1つ年上のTちゃん。

兄のように慕って、毎日一緒に遊んだ。

雑木林でサッカー、ミニ四駆、メンコ、ファミコン。

夏は花火、ローラースケートも流行っていた。

YouTubeもNetflixもない時代だったが、毎日が楽しかった。

◆ 小4の冬、父が倒れる

1月中旬、冬休みが明けて少し経った頃。 父が突然倒れた。

当時の父は、関東のスーパーを転々としながら食品販売をしていた。

車で寝泊まりし、家に帰るのは数ヶ月に数回。

酒は一滴も飲めず、食事は外食ばかり。

今思えば、体に負担がかかっていたのだろう。

軽い痺れや階段の登りづらさはあったらしいが、深刻に捉えていなかった。

そしてある朝、起き上がれなくなった。

救急搬送され、脳梗塞と診断。

しばらく病院でベッドから動けず。

半年経過したあたりから右半身麻痺となった。

私は登校を促され、ただ学校へ向かった。 小4の子どもにできることは何もなかった。

父は現在も特別養護老人ホームで暮らしている。 かつては言葉が出ず「わかんねえ」が口癖だったが、リハビリで驚くほど話せるようになった。

しかし、2025年12月に再び脳梗塞。

意識を失った。今も意識は戻っていない。

◆ 母の離婚、祖父母の死、そして転校

父が倒れ、唯一の働き手を失った我が家は経済的に立ち行かなくなった。

母は離婚し、私を連れて家を出た。

祖父母と父の家から自転車で10分ほどのアパートに移り住む。

その後、父は障がい者施設へ。

祖母は2年後、祖父は3年後に他界した。

私はM小学校からF小学校へ転校することになった。

◆ 転校初日、中指を立てて教室へ

転校初日、母と担任と話していると、Kという男子が現れた。 彼とは今でも付き合いがある。

担任がKに「この子を教室に連れて行ってあげて」と頼むと、Kは私にこう言った。

「中指立てながら教室入ってくれ」

バカなことを言うやつだと思ったが、面白そうだったのでやってみた。

教室は騒然。

「Kが言ったことを本当にやったやつ」として一気に受け入れられた。

この頃、骨格が成長したのか、徒競走でビリだった私がリレー選手になれるほど足が速くなった。

クラブ活動も理科クラブからサッカーへ。

転校をきっかけに、私は“デビュー”したのだ。

◆ 中学時代:サッカー部と、教員への憧れ

F中学校へ進学し、サッカー部に入部。 しかし体力も運動神経もなく、試合には出られない。

シュート練習を見た顧問に「キーパーやってみろ」と言われたほどだ。

キーパーは5人もいて、競争は激しい。

サッカーという競技の“身体接触のグレーさ”が苦手で、高校ではラグビー部に入ることになる。

中学生活自体はとても楽しかった。

毎日が違う日になる学校という場所が好きで、中2の頃には「教員になるのもいいな」と思い始めていた。

◆ 高校受験の失敗と、S高校へ

入試については無知だった。

今なら「家から通えるそこそこの公立」を選ぶだろうが、当時は「友達が受けるから」「偏差値が高いところに受かったらカッコいい」という理由で進学校を受験し、落ちた。

すべり止めの私立S高校へ進学。

◆ S高校:18クラスの巨大校でラグビー部へ

S高校は学年18クラス。

全校で54クラス。

体育館にどうやって入っていたのか不思議だ。

進学校でもヤンキー校でもなく、「なんとなく通う」生徒が多い学校だった。

私は入学後すぐラグビー部へ。

幼い頃に観た『スクールウォーズ』の影響もあったのかもしれない。

サッカー部は150人が入部希望し、延々ランニングさせられ、ほとんどが脱落。

その流れでラグビー部に来る者も多かった。

ラグビー部は毎日「やめたい」と思いながら続けた。

気づけばグラウンドに立ち、必死で練習し、帰る。

授業中も家でも、時間が一瞬で過ぎていく。

体力がない私にとって、突進してくる高校生の足元に頭から突っ込んで止めるのは地獄だった。

KO志木高校との試合では、後にKO大学で活躍する選手にタックルして弾き飛ばされ、尻がもう一段階割れたような衝撃を受けた。

ただ、この3年間を乗り越えたことで「世の中の大抵のことは大したことではない」と思えるようになった。

◆ 大学受験:またしても失敗と、予備校生活

高校1年で「早慶に受かる勉強法」の本を買い、定期テストは頑張った。

しかしラグビー部は高3の9月まで続き、受験勉強は10月から。

当然、間に合わない。

センター試験では数学と生物が30点台。

国語も世界史も振るわず全敗。

「S予備校 池袋校」に入学。

評定が良かったため25万円割引で入れた。

予備校は目的が明確で、居心地が良かった。

学力も性格もバラバラの人間が集まる、独特の空間だった。

◆ 池袋でのバイトと、外国人との珍事件

予備校時代、友人2人と歩いていると怪しいおじさんに声をかけられた。

「兄ちゃんたち、バイトやらねえか。2時間で5000円」

雑居ビルの解体作業を手伝い、粉塵を吸い込みながら30分で終了。

一人5000円もらえる、と思っていたが、

「3人で5000円」だった。時給換算すれば悪くない。

また、外国人に「サンシャインシティに行きたい」と頼まれ案内したこともあった。

展望台のチケット代をケチり、59階の高級レストランに突撃して写真だけ撮って帰るという荒技を披露され、支配人も呆然としていた。

◆ 勉強のしすぎで倒れた日と、3年後に知る真相

冬の日、友人と図書館で勉強する約束をしていた。

私は「寝ずに勉強するのがカッコいい」と思い、深夜まで勉強。

フラフラになりながら図書館へ行き、体調不良で帰宅し、こたつで横になった。

3〜4時間後、目覚めると—— 全身筋肉痛、口の中はズタズタ、ビデオデッキは落ちかけ、こたつの天板はずり落ちていた。

空き巣かと思ったが、家には私しかいない。 何が起きたのか全くわからなかった。

その答えを知るのは3年後になる。

◆ T大学へ進学し、テーマパークで働く

立教大を目指したが受からず、T大学文学部教育学科へ進学。

自宅から片道2時間弱の通学。

一人暮らしもサークルも考えなかった。

1・2年はテーマパークでアルバイト。

屋台風ミニゲームのMCとして働いた。

◆ カフェイン錠剤と徹夜で倒れ、てんかん発作と判明

大学3年、レンタルした『ミッションインポッシブル』の返却期限が迫り、深夜まで鑑賞。

友人に教わったカフェイン錠剤を飲んだところ、明け方に異変が起きた。

私は「うわあ〜!」と叫び倒れ、痙攣。

救急隊員に名前を聞かれても答えられず、母のことも「母です」と言えなかった。

脳波検査の結果、てんかんの発作だった。

◆ さまざまなアルバイト経験

中学卒業後の春休みから、私は多くのバイトを経験した。

  • みかん工場(袋詰め)
  • 和食ファミレス(高校2年間)
  • 引っ越しバイト(高校卒業後)
  • 塾講師・家庭教師 → LDの生徒を担当し、数学の点数が3点→48点まで倍々に伸びた

家庭教師として私が教えた彼はその後教員を目指し、家庭教師のバイトもするようになったのだそう。

教え子を有名進学校に合格させるほどの腕前になった。すげえ。

教員なんかにならなくても、プロの家庭教師、でいいんじゃないか?

◆ 大学のゼミで“ハムスター100匹”を育てることに

大学3年でゼミを選ぶ際、T先生が「どうしても小学校の先生になりたい人はうちへ」と言ったため、理科のゼミへ。

卒論テーマは先生が勝手に決める方式。

私は「幼稚園からもらったジャンガリアンハムスター5匹を100匹まで増やせ」と言われた。

大学の理科室の片隅で飼育開始。

ケージはゴミ捨て場から拾ってきた水槽、エサは期限切れの乾パンとキャベツの外葉。

「小学校の現場は予算がない。お金をかけずに工夫しろ」という先生の教えだった。

ハムスターは最大136匹まで増え、世話に90分。

片道2時間弱の通学をしながら、盆も正月も関係なく通った。

元日は休んだが、1月2日に行くとT先生も来ていた。

◆ 教員採用試験の不合格と、私立小学校へ

当時、小中の教員採用は狭き門。

青森出身の同級生が東京と青森の両方に受かったと聞き、学内がざわついたほどだ。

私は埼玉県で受験したが不合格。

グループ面接でMC的に仕切ると落ちるという噂があり、私は率先して仕切った。

全員黙っていたらどうするつもりだったのか。

T先生から「非公開求人が来ているから選んでこい」と言われ、神奈川のT小学校と東京都の私立小学校のうち、面接のみの都内私立小学校を選んだ。

ここまでが、私ヨハネの生い立ちである。

振り返ると、波乱万丈で、笑えることも苦しいことも全部詰まっている。

でも、この道のりが今の私を作っているのだと思う。

伝説の始まり!最初の記事はこちら

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