私、ヨハネについて プロフィールという生い立ち 後編

うみ

私、ヨハネの生い立ちです。

前編をまだ読んでいない方は、前編からどうぞ。前編はこちら

公立のF中学校入学

町立のF中学校に入学。

ここに通うのは、ほぼF小学校の児童のみ。

サッカー部に入部。

試合には出られず。

体力がなく、運動神経もない。

シュート練習でボールを蹴っているのを見て、顧問の先生が「キーパーをやってみろ」と言うくらい、運動神経がない。

フィールドプレーヤーとしては全く使い物にならなそうだった、のだろう。

キーパーは2年生のG先輩と1年生のOと私。

その後、キーパーを志望する者が、1年生から2人現れる。

転入してきたNもキーパーだったので19人中5人がキーパーだった。

多すぎる。

清水エスパルスよりキーパーが多い。

サッカーをやっていると、体の接触はすごくグレーなところがある。

バスケは相手に触ったらダメ、なのだがサッカーは多少触れてしまった、はOKなのである。

ボールを追いかけていて相手を掴んで引っ張ってはダメ、だが肩をぶつけて競るのは、まあいいよ、というグレーなところ。

ここが嫌というかハッキリしている方が良いと思い、その後、高校ではラグビー部に入った。

中学校生活はとても楽しかった。

学校が楽しいところ、だったので中学2年生のときにはうっすら教員になるのもいいかと思っていた。

決まりきったルーティーン、ではなく毎日違う日が送れそう、と思っていた。

高校入試については、よくわかっていなかった。

今だったら、家から自転車で通える範囲でそこそこの公立、に進学するべきだったと思う。

その点、よゐこの有野氏は入学後にラクしたい、ということで2ランク下げた高校に入学したのだそう。さすが。

当時の私は高校進学について、全くわかっておらず、私服で通える進学校を志望した。

私服で通いたいという訳ではなく、「仲の良い友人が受験した」「偏差値が10も15も上のところに受かったらカッコいい」くらいの理由で受験してしっかり落ちた。

結局すべり止めとして受験していた私立のS高校に入学する。

私立S高校入学

小中、は普通の規模の学校だったと思う。学年4クラス。

S高校は学年18クラス。そうすると全校で54クラス。

よく体育館に入れたものだ。

当時、進学校ではなく、かといってヤンキーが暴れ回る、ような学校でもなかった。

なんとなくの生徒がなんとなく通っていた。

先ほど書いたようにここで私はラグビー部に入った。

入学して3日くらいで入部していた。

ラグビーを題材としたドラマ『スクールウォーズ』を幼少の頃観ていたから、か?

サッカー部、野球部は各中学校からセレクションという名目ですでに集めていた。

その上で、セレクションの連中を押し退けて試合に出たい野心のある生徒を集めていた。

サッカー部の入部を希望した1年生は150人いた。

白いTシャツの胸に苗字を書いて、部活の時間になるとボールには触れず、延々ランニング。

校庭の使用を季節で分けていて、春・夏は野球部が使い、秋・冬はサッカー部が使っていた。

春・夏の間、サッカー部は1軍のメンバーはバスで、控えのメンバーは走って河川敷のグラウンドまで移動していたようである。

今、調べてみると6.7Km。これを控えのメンバーは練習の前後に走って移動する。

控えのメンバーにすら入れない新入部員の多くは延々外周を走らされていた。

当然、耐えきれず退部していく者がほとんど。

我がラグビー部にも、サッカー部から流れてきた連中がいた。

私は毎日やめたい、と思いながらラグビーを続けていた。

気がつくとグラウンドで準備運動をしていて必死で練習して、帰る。

家での時間や授業中はあっという間に過ぎて気がつくとグラウンドにいた。

とにかく体力がなかった。

そして、落ち着いて考えて欲しい。

ボールを持って血気盛んな男子高校生が突進してくるのだ。

それを生身で頭から突っ込んでいって止める。

どうかしている。

練習試合でKO志木高校と対戦した。

後にKO大学でも活躍する選手にタックルに行った。

どうなるかというと弾き返されて、尻餅をついたのだが、力が加わっているのでお尻が割れる。

すでに割れているお尻がもう一段階割れる、のだ。

これはタックルを弾き返された者にしかわからない。

ラグビーや柔道はノーパンでやる、というのも平成の運動部にしかわからない。

今もそうなんだろうか??

ちなみに、ラグビーで一番痛いのは密集で足を踏まれたとき、である。

チタンのポイントがついたスパイクで大男に小指を踏まれる。

思い出しただけで悶絶する。

中学のサッカー部でも高校のラグビー部でもミーティングのような場を設定して、チームとしてどう戦うか戦術を確認したり、ルールを全員が十分理解して試合に臨めるようにしたら勝率が上がるだろう、と今でも思う。

が、平成の運動部は校庭で毎日汗と泥に塗れて終わるのだった。

辛かった。

が、世の中の大抵のことはこのラグビー部の3年間に比べれば大したことではない、とも思える。

よくわからず、高校受験に臨んで失敗した私だが、大学受験も順調ではなかった。

高校1年生のときにエール出版社の早慶に受かる勉強法、のような本を買った。

校内の定期テストはしっかり準備して臨んだ、がラグビー部の活動は高校3年生の9月いっぱいまで続いた。

小学校の教員になろう、と思っていたので埼玉大や文教大、明星大を考えていた。

↑埼玉大は国立なのでセンターを受けねばならず、10月からの勉強でなんとかなるものではない。

当時はふかわりょうが1日10時間勉強して慶応に行った話などをしていて「カッコいい!」と思っていた。

10月から勉強をはじめて、合格するわけもなく、センターでは数学と生物が30点台だった。

国語、世界史も振るわず全敗。

今はない「S予備校 池袋校」に入学。

高校の通知表で評定◯以上なら25万円割引で入学できたため、ここに決めた。

S予備校に入学

予備校は「大学入試に合格する」という目的がはっきりしていて1年間だったが楽しい空間で過ごせた。

通ってくる連中の学力も様々。

こじんまりして居心地の良い学校だった。

予備校時代友達2人と歩いていておじさんから「兄ちゃんたち、バイトやらねえか、バイト」「2時間で5000円出すからよお、助けると思って」と誘われた。

怪しさ&胡散臭さ満点だったが現金欲しいボーイズだった我々はやってみることにした。

池袋の雑居ビルの一室。

道を挟んでジュンク堂の向かい。

3階のフロアーを取り壊していて友人2人はコンクリート片を麻袋に詰め、ビーチサンダルを履いていた私はエレベーターで麻袋を1階の通りに面したところに出す、という作業。

途中粉塵を吸い込み、マクドナルドのトイレに行き小ゲロを吐いて、うがいをした。

2時間の作業、と聞いていたがあらかた片付いた、ということで体感30分で作業が終わった。

5000円を1人ずつもらえるものだと思っていたが、3人で5000円だった。

おじさんに丸め込まれたような気もしたが、30分の作業で1500円と考えればありがたかった。

池袋には外国人も多く「サンシャインシティに行きたい」という外国人を友人と案内したこともあった。

サンシャインに着くと展望台に行くにはチケットを買わなければならなかったが、アメリカ?から来ていた彼は「イラナイ イラナイ、イイカラ、イコウ」と展望台のある60階ではなく、59階にあるレストランを目指した。

一生来ることもないような、真昼間なのに青い光で薄暗く照らされたオシャンティーな高級レストラン。

支配人らしい人に流暢な英語で「展望台に行きたいけど、チケット代出すの勿体無いじゃん。ちょっと写真撮るだけだからいいでしょ?お願い!」と高速の英語?で伝え、返答を待たずに窓際に行って撮影を済ませ、礼を行って帰っていった。

平日の昼間外国人と予備校生2人の襲来に支配人もお姉さんたちもなす術がなかったようだった。

父だけでなく、私も倒れる

冬の日、友人と朝から図書館で勉強しようと約束をしていた。

ナイナイの岡村や前述のふかわりょうのように「寝ずに勉強したらカッコいい!」「俺なんかが立教に受かったらカッコいい!」と思って深夜、明け方近くまで勉強していた。

今思うと完全に間違い。

0時に寝て6時に起きて勉強した方が100倍身になる。

LUNA SEAを聴きながら勉強も間違い。

無音に限る。

とにかくこの日フラフラになりながら図書館に這っていった。

30年前のコミュニケーションツールは家の固定電話くらいしかない。

彼はもう家を出てしまっているだろうから、直接、赴くしかない。

図書館で友人に体調が悪いことを伝え、帰宅した。

少し横になろうと、こたつで寝転んだ。

3、4時間後驚く。全身筋肉痛。口の中はズタズタに切れている。

テレビの上のビデオデッキは落ちかけていて繋がっているケーブルでなんとか落下せず済んだ。

こたつも上の卓がずり落ちている。

空き巣が入ったのか?

このときは家に私しかおらず、何が起きたのか全くわからなかった。

何が起きたのかわかったのは3年後。

立教大を目指して勉強したが受からず、T大学に進学する。

私立T大学入学

T大学文学部教育学科初等教育コースに入学。

当時、T大には教育学部はなかった。

自宅から駅まで自転車で20分、最寄駅から大学の最寄り駅まで90分。

通学片道2時間弱。

大学の近くで一人暮らしをしようだとか部活やサークルに入ろう、とは全く考えなかった。

1・2年の頃はテーマパークでのアルバイトに明け暮れた。

屋台をモチーフにしたミニゲームで成功するとぬいぐるみやお面がもらえるアトラクションのMC。

当時は珍しいビルイン型のテーマパーク。

大学3年生のときにレンタルしてきた『ミッションインポッシブル』のビデオの返却期限が明日に迫り、深夜までかかって観た。

ちょうどその頃大学の友人からカフェインの錠剤を飲むと眠気が吹っ飛ぶということを教えてもらい、服用した。

朝にはテーマパークのバイトに起きて行かなければならない、というところで異変が起きた。

明け方私は「うわあ〜!」と叫び声をあげて倒れた、らしい。

母は私がふざけていると思って大声を出さないよう注意しにくると、私が倒れて痙攣していた、のだそう。

救急車が来て、救急隊員に名前を聞かれるが、私は首をかしげ答えられない。

救急隊員の方が母を指して「こちらはどなたですか?」と聞く。

安心できる人、というのはわかるが「母です」とは答えられなかった。

脳波をとると「てんかん」の発作だったようである。

↑このときが最後の発作。

睡眠不足のときや全力疾走した後、「銀色のホコリ」が見える。

それが発作が起きる前兆のようなもので、気をしっかり持って「大丈夫だ」と強く念じて、落ち着かせる。

今もたまにてんかんの発作を抑える薬を飲んでいる。

脳波をとるとてんかん特有の波形なのだそう。

バイト遍歴

私は中学校を卒業した春休みからアルバイトをやっていた。

友達の紹介でミカン工場。

みかんを袋詰めしてセロテープで留める作業を延々と。これは1日だけ。

和食ファミリーレストラン。

高校在学中の2年くらい。

母子家庭ということで許可してもらってやっていた。

賄いで上うな重650円。

もっと食べておけばよかった。

スーパーで買ってきたうなぎの蒲焼きはフライパンを使って料理酒で蒸すといいよ、ということを教わった。

通っていたS高校の先生たちがこの店で宴会をしていたのも面白かった。

引越しのバイトを高校卒業後の3月から4月中旬、予備校が始まるまで。

日給で8500円、同額くらいをご祝儀でもらえたこともあり、わりの良いバイトだった。

体力がそこまで衰えていなかったこともある。

みなさんがもし引っ越しするとき、ご祝儀あるいは心づけみたいなものを作業員さんに渡すとしたら、作業が始まる前に渡した方がいいです。

終わった後にもらっても頑張りようがないので。

大学に入ってから、一度別の引っ越し会社でバイトしたが、やたらリーダーが威張る方で1回行ってやめてしまった。

塾講師と家庭教師もやった。

家庭教師で教えた子はLD(ラーニングディスアビリティー。学習障害。)と診断されていた。当時、こういった診断名が出始めた頃。

中学生の彼に英語と数学を教えて、やっとの思いで高校に入学させることができた。←彼は数学の定期テストで3点、6点、12点、24点、48点と得点が倍増していった。

医師からは、彼の50点は他の子の100点と言われていたとのこと。

その後は50点くらいを維持していた。

彼は教員を目指し、のちに家庭教師のバイトもするのだが教え子がみんな有名な進学校に合格していた。

絶対に家庭教師を極めるべきだと思うのだが。

理科ゼミにいらっしゃい

大学3年生になるとゼミを決める。

T先生が「どうしても小学校の先生になりたい、という人はうちのゼミに来てください」と言っていたので、T先生のゼミに。

そこは理科のゼミだった。

ゼミでは卒論が必須だった。

T先生が一人ずつ「お前は〇〇について調べて書け」と決めていった。

どんぐり、タナゴ、ホタル、月、ケナフ、リニアモーターカー、サッカーボール、足の裏、小学校の窓のさんに死んでいる虫…。新潟県出身なので米、テニス部だからテニスボールなど学生と関連づけることもなくはないが、なんとなくということも多かった。

私は「この前、幼稚園からもらってきたジャンガリアンハムスターが5匹いる、お前が100匹まで増やせ」ということで私の卒論はハムスターになった。

大学の理科室の片隅で飼育がはじまった。

T先生は聞いたことには答えてくれる。

「先生、増えてきたのでケージを増やしたいです」→「ゴミ捨て場にヒビが入った水槽がある。拾ってきて使え」

「先生、エサは何をやればいいですか」→「非常食で期限が切れた乾パンが山ほどある。あとは八百屋さんでキャベツの外側をもらってこい」

小学校に勤めたら、予算なんてつかないことがほとんどなんだからお金をかけずになんとかしろ、ということも言っていた。

ハムスターのことだったら何時間でも喋れるくらい詳しくなれ、とも言われた。

2Lのペットボトルをカッターで切り、組み合わせてハムスターの新しい住居を作った。

『動物のお医者さん』にも出てくるチップ(おがくず)はビニール袋に入れられ理科室に届けられた。

ハムスターは生き物なので、基本的には毎日餌と水をやる。

片道2時間弱、ハムスターの世話が一番多いときで136匹(ナワバリ意識が強いのでよくわからないやつは徹底的に攻撃する。そのためなるべく分けて飼育する)まで増え、水をやったり、餌をやったりの世話に90分。

行き帰りの電車の中、スマホもなくどう過ごすかは大きな問題、だった。

盆も正月もなく、1日おきに行っていた。

体感で2日開けてしまうと弱いやつが1、2匹死んでしまう印象。

元日は流石に行かず、1月2日に行くとT先生も来ていた。

1月2日から何事もないように出勤している警備員さんも異常な事態だと思うが。

構内が生活道路になっていて誰でも通れるようになっていたとは言え、ブラック。

当時、小中学校の教員にはなかなかなれなかった。

同級生の青森出身の女の子が東京と青森どちらも受かった、と聞いて学内がざわついた。

私は埼玉県で教員採用試験を受けたが不合格だった。

なんでもグループ面接があり、そこで口火を切ったり、MC的に振る舞うと不合格になるという。

私は率先してMCとして振る舞い口火を切った。

全員だんまりだったらどうするんだろうか。

結局、埼玉県が見る目がないため、私という逸材は逃げてしまった。

非公開の求人が就職センターに来ていて、行って選んでこいとT先生から言われた。

神奈川の私立の名門T小学校と東京都の私立小学校。

T小学校は面接・筆記、もう一つの小学校は面接のみだったので都内の私立小学校を希望した。 

結局、そこで20年以上勤めて、今に至る。

娘は国立大の教育学部に進学した。

私が教員になる確率は2%、とうそぶいているが、どうするんだろうか。現在2年生。

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