私、ヨハネについて プロフィールという生い立ち 前編

うみ

ブログに関する本を読んだ。

5冊。

共通して書いてあったのは「プロフィールを書くべき」ということ。

私は、話し相手の素性が知りたいタイプなので、書いてみようと思った。

プロフィールだと一言二言なので、いっそ生い立ちから今までについて書いてみる。

誕生から幼少期

私、ヨハネは1970年代後半に生まれた。

当時、すでに少なくなっていたお産婆さんに取り上げられた、とのこと。

中野区のアパートの一室で生まれ、その後都内を転々とした。

かすかに覚えているのは池上の本門寺の近くに住んでいたこと、だけ。

父親がパン屋を開業したこともあった。

が、パン屋で修行して独立したわけでもなく、すぐに閉業している。

父親の開いたパン屋の記憶は全くない。

3歳になり、父方の祖父母と埼玉県内で一緒に暮らすことになった。

周りは畑だらけ、家のすぐ裏は雑木林。

古い木造2階建に両親と祖父母の5人で暮らしていた。

2階の普段使っていない部屋が羽毛布団で占拠されていて、この布団を使って寝るか、売るか捨てれば良いのに、と思っていた。

今思うと、高額でつかまされた物なのだと思う。

家のすぐ裏が雑木林なのと、古くに建てられた家屋なので、ゴキブリやネズミがよく出ていた。

小学校入学

公立のM小学校に入学。

物心はまだ、ついていない。

今思い出しても地獄のようなシステムが登校班、である。

近所のタバコ屋さんの前に7時30分に集合。

班長と班員の4〜5人で30分の道のりをテクテク歩く。

今、Googleマップで調べると1.3kmで徒歩18分、と書いてあるが、いやいやいやいや、子どもの足なので30分、周りは畑で景色が変わらないから体感で40分は歩いていた気がする。

何が地獄かというと、学校まで歩いていて大を催す、のだ。

今も私は通勤中に催すので、朝食は食べない。

が、当時小学生の私には「途中でウンコをしたくなるから朝食はいらない」という拒否権があるわけもなく、食べざるを得ない。うまく説明する術も持たなかったと思う。

登校班なので「漏れそうだから」と離脱して走って行くことができない。

(一度、離脱して竹林でしたこともあった。しっかり他の児童に目撃されていた。)

肛門括約筋に全神経を集中し、親友のTちゃんとの会話にもしっかり相槌をうち、もうすぐ学校、もう漏れる寸前だ、だが着いた!やったー!というところで、学校の門は開いているものの昇降口の戸は施錠されているクソシステムにより、校舎内に入れず、学校裏で力つき脱糞したこともあった。

小学生の頃は勉強ができるわけでもなく運動ができるわけでもなく、家も貧しく、なんの取り柄もなく目立たない子、だった。目立たないが、ウンコだけ漏らしていた。

友達はみんな近所に住んでいた。1つ年上のTちゃんと、他2〜3人と毎日遊んでいた。

Tちゃんは兄と妹がいた。

私は一人っ子だったこともありTちゃんを兄のように慕って毎日一緒に遊んでいた。

Tちゃんは面倒見がよく、運動神経もよかった(当時はリトルリーグが全盛で、Tちゃんは一人で雑木林でピッチング練習のようなことをしていた。リトルリーグに入ったら即レギュラーだと誘われていたが、断っていたようだ)。

Tちゃん達と雑木林でサッカー、ミニ四駆、メンコ、ファミコン。

夏は花火もやり、ローラースケートも流行った。

今のようにYouTubeもNetflixもなかったが、毎日楽しかった。

小学4年生の1月のある日、父が倒れる

1月の中旬、冬休みが終わりしばらくしたあたり。

父はこの頃、仕事で関東各地のスーパーを転々としていた。

スーパーの店内の一角やスーパーの出入り口などで「先週、いちご大福を売っていたおじさんがいたけど、今日行ったらいなかった」のような。扱う食品も明太子だったり皿うどんの乾麺だったり。会社が仕入れたものをスーパーで販売していた。そのため車で寝泊まりしていて家に帰ってくるのは2〜3か月に一回程度だった気がする。

父は酒が一滴も飲めない。親戚から「奈良漬けで酔っ払うからね」といじられていた。

食事はほぼ全て外食で、好きなラーメンや焼肉が多かったのだそう。

後になって、若干手の痺れだったり、階段の登りづらさ、があったそうだが倒れるまでそれほど深刻には捉えていなかった。

平日の朝、布団から起きあがろうとした父は結局立ち上がることはできなかった。

小学4年生の私がいても邪魔なだけで、登校を促された。

その後父は救急車で病院に運ばれ、脳梗塞と診断された。

その日から右半身が麻痺し、喋るのもたどたどしい「障害者」になった。

今も特別養護老人ホームに入所している。

一時期は、うまく言葉が出ず、受け答えのほとんどを「わかんねえ」で済ませていたが、今の特養に入る直前まで入っていた老健でのリハビリで以前とは比べものにならないくらい、しっかり話せるようになった。

小学4年生のとき、唯一の働き手だった父親が倒れた。

祖父は工務店を営んでいたが、この頃には閉業していた。

経済的にたち行かなくなり、母は離婚し、私を連れて家を出た。

少し離れたところに母はアパートを借りて私とそこに住んだ。

祖父母と父の住む家まで自転車で10分くらいのところである。

この後父は障がい者施設に入り、祖母は2年後、祖父は3年後に他界した。

M小学校から隣のF小学校へと転校

私は転校する。

5年生の3学期から母と暮らすようになったためである。

転校初日。

母と担任の先生と3人で話していた。

そこへKが現れる。

このKとはいまだに付き合いがある。

担任の先生はKに「この子を5年4組の教室に連れて行ってあげて」と頼んだ。

Kは快く応じ、私を案内し、こう言った。

「中指を立てながら教室に入ってくれ。」

バカなことを言う奴だ。

そして、私もバカだったので、面白そうだと思い、応じた。

中指を立てて教室に入ると、騒然とした。

ノリの良いふざけた奴として受け入れてもらえた。

ちょうどこの頃「骨格が大人に近くなってきた」らしく、徒競走でずっとビリだったのがリレーの選手になれるくらい、速く走れるようになった。

クラブも4年時は理科クラブ。5年時も理科クラブだったのが、6年生のとき一念発起して サッカークラブを選んだ。

転校したことでデビューできた、と言える小学校生活だった。

すぐ中学校へ入学する。

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